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イスタンブールという都市

イスタンブール | イスタンブールの交通機関 | イスタンブールの海上交通 | イスタンブールの鉄道

ローカルタイム:

私にとってのイスタンブル

「イスタンブル」、とても響きがよい地名だ。かつての東ローマ帝国の首都(330-1453年)、コンスタンチノープル、そして、オスマントルコ以降のイスタンブール(1453−1923年)とかつて世界を制覇した歴史都市として私の感性をくすぐる。

それはなぜかと言われても、そう感じるとしか答えようがない。やはり文字情報からの蓄積とその歴史がそういう魅力を醸し出してるのかもしれない。それは実際にこの街の空気を吸い肌で感じなければ本当の味わいは見だせないのだが、雑誌などに掲載されているボスポラス海峡とその両側に広がる街並み世界広しと言えどもこの都市くらい美しい都市はないだろう。

アジアとヨーロッパが出会うイスタンブル

Istanbulイスタンブールは摩訶不思議な地形であり、「アジアとヨーロッパの接点」と形容されるとおり、上の画像のように黒海(上部)とマルマラ海(下部)を結ぶボスポラス海峡に面し(左側がヨーロッパ、右側がアジア側)、マルマラ海からはダーダネルス海峡を通ってエーゲ海と結ばれている。そのため古くから交通の要衝として栄えた。 このボスポラス海峡、ヨーロッパとアジアの接点を地理的な数値でみると、約30kmの長さがあり、最も幅が狭いところで750m(Rumelihisari とAnadoluhisari)、最も広いところで3.7km(北部)ある。深さは、36.5mから124mだ。

そして「イスタンブールは坂が多い」の一言に尽きる。これは悪い意味でない。坂が多いと視野と視角が多様化するため街がとても魅力的になる。私の方程式では、歴史・文化+坂+水面=フォトジェニックな美貌都市、となる。イスタンブールはまさしく世界の中でもフォトジェニックな都市の代表格である。

イスタンブールの名の由来

その昔、ビュザンティオンBizantion、次いでコンスタンティノポリスConstantinopolisと呼ばれていた。紀元前658年、古代ギリシアのビザスByzasという人がこの地に入植し、Byzasにちなんでビザンティオンと命名したと言われている。「ビザンティウム」はそのラテン語読みである。

その後、2世紀末、ローマ帝国の支配がこの地にも及び、西暦330年にはローマ皇帝コンスタンティヌス帝がビザンティウムを新都と定めた。そして、遷都以来、この町はコンスタンティノポリス、つまり「コンスタンティヌス帝の都市」と呼ばれるようになる。1453年、メフメット2世率いるオスマン・トルコ軍がコンスタンティノープルを陥落させ、その影響下に入ってからイスタンブールと変わったようだ。しかしイスタンブールの名が正式に用いられるようになったのはオスマン・トルコ帝国滅亡後の1930年(独立は1923年)からである。

ではその間はどうどうだったのだろうか。日本での歴史的記述では、コンスタンティノープルが陥落してからイスタンブールになったというのが通例であるが、トルコ語ではイスラムが広がったという意味のIslambolで表現されたり、アラビア語やペルシャ語では、Asitane-i Saadet(幸福の宮居)、Umm-i Dunya(世界の母)、Daru’s-Saltanat (王権の館)等と様々な呼ばれかたをしていた。信頼できそうなのが貨幣などの刻印に使われたコンスタンティニーイェ(オスマン語)が正式ではないだろうか。

イスタンブールの語源は諸説あるが、東ローマ帝国時代からスラブ人らが旧市街を指して呼んでいたスタンブルという地名がトルコ人にも取り入れられたものともされている。この名前は、一説にはギリシャ語の"eis stin poli"(都市に)から取られ、ギリシャ人がコンスタンティノポリスを「都市の中の都市」と呼んだことに由来するという。あるいは、Constantinopolisが詰まったstanpolを語源とする説がある。また、トルコ語の「Islamイスラム」と「bul都市」が合成されて「イスタンブール=イスラム教徒の町」となったという説も聞く。

イスタンブールの発音

イスタンブル、日本語では「イスタンブール」と表記されるが、標準トルコ語の発音では最後の音節は長母音化されないので、発音により忠実に「イスタンブル」と表記されることも多い。もっとも、トルコ語の口語では母音調和化して、日本語ネイティブには「ウスタンブル」と聞き取れるような発音になることも多いようだ。これは次回確認してみようと思っている。

ボスポラス海峡の名の由来

こちらも諸説ある。Byzas以来約850年ギリシア植民市として栄えたことから、「ボスポラス海峡」はギリシア風の地名という説だ。ボスポラス海峡は、「雌牛の渡し場」という意味で、これは、ゼウスが妻ヘラの嫉妬から逃がすために恋人のイオを雌牛に変身させてこの海峡を渡らせた、というギリシア神話に基づいている。 もう一つの説は、紀元前3世紀まで反映した現在のウクライナ、黒海沿岸南部にあった古代ギリシャの植民地「ボスポラス王国(Cimmerian Bosporus)」に由来する説で、この海峡を通過してボスポラス王国へ繋がることからその名が付いたとも言われている。

“Bosporus”か、それとも”Bosphorus”なのか?

ボスポラス海峡の英文表記にはThe Bosporus straitとThe Bosphorus Straitの二通りがあるが、どちらが正式なのかというとどうやら前者の”Bosporus”に軍配があるようだ。ちなみにボスポラス海峡大橋は“The Bosphorus Bridge”(1973年に竣工)と表記されている。この関係ははっきりしないが著名な英国人技師(Sir Gilbert Roberts)が設計を担当している。ボスポラス第2橋はFatih Sultan Bridgeという。

文学でのイスタンブール

「憂愁」に満ちたこの街-イスタンブルと表現したのは2006年にノーベル文学賞を受賞したトルコ人作家オルハン・パムクだ。これは、オスマン・トルコの首都であったイスタンブルの栄華とその後の没落を表しているのではと想像している。「イスタンブル-思い出とこの町」は自伝的な内容でイスタンブルが記されている。代表作には「私の名は紅」、「雪」、「白い城」等があり邦訳も出ている。

歴史小説といえば塩野七生の「コンスタンティノープルの陥落」はイスタンブールを訪れる人は概ね読んでいることだろう、アガサ・クリスティーの「オリエント急行殺人事件」などイスタンブールは歴史的な題材や小説のモチーフを数々提供している。


近年の作品では、16世紀に消えた赤いイズニック・タイルと津和野を結びつけた恋愛小説「イスタンブールの闇」や古代遺跡エフェソスを舞台にした運命的な人生を描いた「エフェソスの白恋」(両方とも高樹のぶ子著)がある。「イスタンブールの闇」ではスルタナメット地区やプリンスズ・アイランドが、「エフェソスの白恋」では題名になっている古代エフェソス遺跡が描かれており、トルコを知る上でも興味深い。

高樹のぶこ著の2冊、「イスタンブールの闇」と「エフェソスの白恋」


映画に登場したイスタンブール

007ロシアより愛をこめて映画についても然り、フォトジェニックな都市は映画にも当然似合う。例がやや古いがショーン・コネリー演じるジェームス・ボンドが活躍する007シリーズ、「ロシアより愛をこめて」(1964年4月公開)ではイスタンブールの映像が前半を占める。英国海外情報局のトルコ支局長・ケリム(ペドロ・アルメンダリス)から暗号解読器(レクター)を手土産にしたソ連情報員タチアナ(ダニエラ・ビアンキ)の亡命要請を受けたボンドはパンアメリカン航空でYesilkoy空港(イスタンブール空港)に到着する。ケリムに案内されイスタンブール地下貯水池(地下宮殿)に潜望鏡のような仕掛けがあり、どういうわけかソ連領事館の中が覗け、罠である美貌のタチアナが見える。ソ連領事館(現ロシア領事館)は、ペラ地区イスティクラル通りにあるのでどうもおかしいがそれは映画の世界だ。

ボンドは、ボスポラス海峡クルーズ船の上でタチアナからレクターの情報を聞き出し、アヤ・ソフィアでタチアナが持ち出したソ連領事館の平面図を入手する。ケリムがボンドを連れて行った村のシーンは、イスタンブールのアジア側郊外にあるペンディク(Pendik)だ。そして、ボンドは、シルケジ駅からタチアナとオリエント急行に乗り、ベオグラード、ザグレブへ向かう。 ここまでがイスタンブールを舞台にしているが、映画に登場したイスタンブールは現在もそのままタチアナの美貌同様辿ることができるであろう。

Taksim Maydan タクシム広場界隈

トルコ語は語順が日本語と同じのようだ。タクシム広場Taksim Maydanであり、広場タクシムMaydan Taksimではない。

準備中

 

Istiklal Caddesi

Istiklal Caddesiの意味は”インデペンデンス通り”だ。イスタンブールの最も賑わいのあるしゃれたショッピングストリートだ。通りには復活したクラッシックなトラムがタクシム広場とTunelの間を結んでいる。

トルコ料理

世界三大料理の一つにトルコ料理があげられている。フランス料理と中華料理は想像がついたがトルコ料理とは、しかし、オスマントルコの繁栄から想像すると不思議ではない。そのトルコ料理とは何か、日本ではあまりお目にかかることは無いだろう、いや最近ドネルケバブといいうトルコファーストフードのお店が増えているな、トルコ料理の真髄はこれからだ。

本家トルコ料理

分家トルコ料理はブルガリアやシリアで何度か食べたことがあり、本家の料理はどんなものなのかと興味を持っていた。周辺諸国であるレバノン・シリアやブルガリアでは美味しい料理はトルコ料理のメニューかその影響を強く受けた料理だった。

一説にはレバノン・シリア料理は宗主国がフランスだったので美味しいという説があるが、フランスの影響は否定しないが私はトルコの影響の表れではないだろうかと思う。エジプトを例に取ると、英国が宗主国だったので不味いとか、なんとなく納得してしまいそうだが、エジプトの不味さはトルコからの距離がレバノン・シリアより遠いのでオスマントルコの支配下にあったものの食文化は差ほど浸透しなかったのではとも考える。逆にコーヒーはエジプトからオスマン・トルコへ伝わった経緯がある。

ブルガリア料理はケバブツェ(ひき肉料理)とヨーグルトを多く使うのが特徴だ。これはバルカン半島全域で共通のようだ。カヴァルマ(陶器のポットで肉と野菜を煮込んだ料理)はブルガリアの代表的な料理だが本家にもあるし、シリアにもあった。ということはトルコの影響なのだろうかと推測している。 さて、本家の味はサンプルがロカンタばかりでは批評できるレベルにないが本人的には非常に満足している。

ウィンナーコーヒーとオスマン・トルコ

日本でウィンナーコーヒーというと、生クリームかホイップクリームがやや濃いコーヒーの上に浮かび、シナモンパウダーがトッピングしてある、若しくはシナモンスティックが付いているものを指す。実はウィンナーコーヒーというコーヒーはウィーンにはないが、ミルクの泡をのせたコーヒーをメランジェ(Melange)やホイップクリームをのせたフランツィスカーナー(Franziskaner)がある。これらがウィナーコーヒーに近い。

さて、ウィンナーコーヒーの起源はというと1683年、オスマン・トルコ軍がウィーンを包囲した(第2次)時に起因する。ウィーン市民は城砦内に立て篭もり、包囲は結果失敗しオスマン軍は退却した。ウィーンの街を危機から救ったフランツ・コルシツキーがオスマン・トルコ軍の遺留品である“kahve”(緑のコーヒー豆を挽いたもの)を基にカフェを開店し好評を博した。これがウィンナーコーヒーの元祖であり、オスマン・トルコなくしてウィナーコーヒーなしというわけである。

トルコ建築

モスク建築は別として、「木造、出窓」、これが特徴のようだ。

モスク建築はシナン・・。

(準備中)

イスタンブールの物価

日本と比較して同じくらいかやや高いと思っていたら問題ない。ロカンタでの食事は5-7.5YTL、カフェやレストランでは15-30YTL、小奇麗なカフェでコーヒーは5-7YTL、スタバで3.5YTLだ。タバコは5YTL程度と日本よりかなり高い。ビールは日本と同じくらいだろうか500mlで2YTL程度だ。 食料品は8%のVATが内税で課税されている。購入先は、Carrefour、Dia、MiGREOSなどのスーパーマーケット等。1.00 YTL = 92.5970円(2007年11月16日)

トルコ通貨

2005年1月1日から0を6桁取った新トルコリラへ移行した。新トルコリラの表記はTRY。1トルコリラの為替レートは約95円。1 Turkish New Lira = 95.68666 Japanese Yen(Saturday, October 20, 2007)

その他の為替レートは以下のサイトで確認できる。Bloombergは対円為替レート(ヨーロッパ通貨)とのクロスレートが参照できます。

両替は銀行及び両替所で行う。手数料を別途請求する場合とレートに手数料が含まれている場合があるので確認する。空港の荷物を受け取る手前にある窓口(銀行と両替商が並んでいる)の銀行では、手数料をしっかと徴収された。このときはUSD100を交換しTRY5だった。

ボスポラス海峡ツアー

IDO及びTurYolがボスポラス海峡ツアーを運営している。出発は両社ともエミノニュからだ。IDOはボスポラス海峡沿いの港に停泊しながら黒海に近いxxxで折り返してくるが、TurYolは1時間半のツアーでRumei Hisariで折り返してくる。と説明がある。

CIRAGAN PALACE KEMPINSKI

私の知っているイスタンブールのホテルで一番気に入っている。

Ciragan Cad.32 34349 Besiktas Istanbul

Tel. 0212-326-4646 Fax. 0212-259-6687